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「夢より現実」の生活を送る中年男も引き込むハルキワールド――村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』 [ブックレビュー]


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本



騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


 村上春樹の小説を初めて読んだのは20代前半だったと思う。ブルックスブラザーズのネイビースーツを着てサラリーマン生活を始めたころだ。最初に手にしたのは講談社文庫の『風の歌を聴け』。あの有名な一文、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」を読んでしびれてしまった。まるで若手芸人がフットボールアワー・後藤のキレのあるツッコミを初めて生で観たときのように。

 スーツのジャケットの内ポケットには、常に『風の歌を聴け』を入れていた。まるでお守りを隠し持つように。だが、サラリーマンにとって、村上春樹の本は決して仕事のモチベーションを上げるものではない。なぜなら、彼の小説に多く登場する主人公の「僕」は、ファンタジックな世界を冒険することに熱心で、現実の世界で上手く立ち回ることにはそれほど興味を示さないからだ。サラリーマンとして上手く立ち回り、出世したいのならば、村上春樹ではなく、司馬遼太郎や塩野七生の本を持ち歩くべきなのだ(実際、多くのサラリーマンが彼らの本を読んでいる)。

 私は最初に勤めた製造会社で7年間働いた後、編集者になることを理由に退職した。そのころには、村上春樹の既刊本のほとんどを読み終え、新刊が発売されるのを待つようになっていた。

 私と村上春樹の本との蜜月は2009年に終わりを迎えた。同年5月に新潮社から『1Q84 BOOK 1』と『1Q84 BOOK 2』が、翌年4月に『1Q84 BOOK 3』が発行され、それらを読んだときに、「この物語には私が求めているものがない」ことに気付き、もはや私が村上春樹の小説を必要としていないことを認めざるを得なかったのだ。

 そして、『騎士団長殺し』である。第1部と第2部とも2017年2月に新潮社から発行されたが、読みたいとはまったく思わなかったし、購入もしなかった。私は下北沢にある書店B&Bで定期的に行われている「フィクショネス文学の教室 in B&B」を受講しており、その課題図書になったため、仕方なく古本を手に入れ、読み始めたのだ。

 実際、第1部を読んでいる間は退屈だった。おなじみの比喩とカッコで括った文章の多さ、登場人物たちのクールでスマートな言動。それらが気に障って小説の世界に入り込めず、ページをめくるスピードはまったく上がらなかった(課題図書でなければ、途中で読むことを中断していただろう)。

 だが、第2部の後半に入ったあたりで私の読み方に変化が現れた。物語にのめり込み、最後のページまであっという間にたどり着いてしまったのだ。まるでサニブラウン・ハキームが躍動感ある走りで100mを駆け抜けるように。

 夢よりも現実に目を向けなければならない中年男が、ファンタジーの世界に没入するのはそう簡単なことではない。しかし、40代も半ばを過ぎた私は、『騎士団長殺し』を読むことを楽しんだ。主人公と一緒にファンタジックな世界を冒険し、興奮した。だがそれは、20代や30代のころに感じたものと同一ではないような気がする。では一体、何が違うのか。それがわかるまでに私は時間を必要としている。私は時間を味方につけなくてはならない。

 下戸の私は今、伊藤園の健康ミネラルむぎ茶(もちろんカフェインゼロだ)を飲みながら、村上春樹の新作が出たら読んでみようと思っている。だが、ジャケットの内ポケットにそれを入れることはもうないだろう。現実との折り合いのつけ方が、なんとなくわかってきたから。

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いつか子どもたちが彼女の「好き」を受け入れられる日まで――『聖火』サマセット・モーム著、行方昭夫訳 [ブックレビュー]


聖火 (講談社文芸文庫)

聖火 (講談社文芸文庫)

  • 作者: モーム
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/02/10
  • メディア: 文庫


 知り合いの女性Kには、10年以上連れ添った夫と2人の子どもたちがいる。それでも好きな男ができて、彼女はその男のもとに走った。夫と子どもたちと別れる決断を下して。

 Kが失ったものものは大きかったはずだ。それに匹敵する喜びを彼女は手に入れられたのだろうか。私にはわからない。人を好きになることはハッピーなだけでなく、往々にしてアンハッピーな要素も含んでいる。

『聖火』にはさまざまな「好き」が詰まっている。母から子への「好き」、性的なつながりを軸にした「好き」、憐憫を伴う「好き」、敬意に支えられた「好き」、兄弟としての「好き」――。

 そのどれもが美しいはずなのに、それだけでは収まりきらない側面を持っている。そればかりか、ときに「好き」は残酷ささえも抱えているのだ。

 この戯曲の作者モームは、主人公ともいえるタブレット婦人にこんなセリフを与えている。

「人は万人にとってなら全てのものでありうるかもしれません。でも特定の個人にとって全てのものというわけにはいきません。また特定の個人が誰かにとって全てのものではありえません」

 モームの人間観が表された言葉だと思う。

 どんなに理性を働かせても「好き」を抑え切れないときがある。たとえ倫理的に誤っていようと、「好き」になるときは「好き」になってしまう。人間はじつに不完全なものである。

 モームは『聖火』の中で、どんな形であれ人が誰かを「好き」になることを肯定する。『聖火』は、不完全な人間にとって圧倒的にやさしい戯曲なのだ。

 Kの子どもたちは、母親に捨てられたという思いを抱いているに違いない。彼らがそう思うのは当然であり、誰もそれを否定するべきではきない。

 その一方、Kが誰よりも彼女の子どもたちを「好き」だったことを私は知っている。だが今は、Kのその気持ちを子どもたちは素直に受け入れてくれないだろう。

 時間は掛かるだろう。だがいつか、Kの「好き」は必ず子どもたちに伝わるはずだ。私は彼女と2人の子どもたちを徹底的に肯定する。『聖火』を読んでその思いを強くした。

「『共謀罪で報道萎縮』は大ウソ」のウソ [オピニオン]

 先日、ツイッターのタイムラインで気になる記事を見つけた。ダイヤモンドオンラインに掲載された「『共謀罪で報道萎縮』は大ウソ、文春砲に勝てない新聞の泣き言だ」というタイトルで、筆者はノンフィクションライターの窪田順生氏。マスコミに対する問題提起だと思ったのでリツイートしようとしたが、少し違和感があったので手を止めた。
 そこで、なぜ違和感があったのかを検証してみた。なお、私は「共謀罪」法に反対していることをあらかじめ表明しておく。

共謀罪がなくてもマスコミは権力に萎縮しているという主張

 窪田氏の書いた記事「『共謀罪で報道萎縮』は大ウソ、文春砲に勝てない新聞の泣き言だ」は、2017年6月15日にウェブメディア「ダイヤモンドオンライン」に掲載された。6月18日時点でまだ掲載されているので、興味のある方は読んでみてほしい。

http://diamond.jp/articles/-/131844

 記事には、次のようなリード文がついている。

 あの国連からも猛反対を受けた「共謀罪」。しかし、新聞やテレビ、通信社など大手マスコミが、この法律によって萎縮するかと言えば、答えはノーだ。こんな法律がなくとも、ハナから権力に萎縮しているのが日本の大手マスコミの大問題点である。

 以下、少し長くなるが記事の内容を要約する。

 共謀罪は野党やマスコミだけでなく、国連・人権理事会の報告者からも反対の声が上がった。だが、国連特別報告者はこれまで、わりとよくダイナミックな勘違いをしてきた。そして、共謀罪についても勘違いであるように思われる。特に国連特別報告者の「共謀罪によって、日本の報道が萎縮している可能性がある」という主張は眉唾もので、共謀罪に関係なく、日本の報道は以前からずっと萎縮し続けてきた。むしろ、共謀罪ができたことで報道らしい動きが現れてきたのだ。

 日本よりも報道の自由が保障されているスウェーデンには「秘密保護法」があり、アメリカででは個人のケータイやパソコンにいたるまですべてNSA(国家安全保障局)によって丸裸にされている。つまり、報道の自由と法規制や国家からの圧力に因果関係は見当たらない。ジャーナリストがバンバン処刑されるような国でなければ、報道の自由はむしろ権力側でなく、報道をする側の覚悟や姿勢の問題なのだ。

 国連特別報告者は日本の記者クラブは廃止すべきだと述べている。(取材源にアクセスを維持するために自分の論調を変えてしまう)「アクセス・ジャーナリズム」を助長しているからだという。実際にアクセス・ジャーナリズムこそが日本の報道における「王道」であり、官邸を取材源とする読売新聞と、前川前文科事務次官を取材源とする朝日新聞の論調がきれいに分かれたことが、それを雄弁に物語っている。

 新聞やテレビ、通信社は、記者クラブという各社の利益調整を行う談合組織に頭までどっぷり浸かっているので、組織がまるっと情報源に依存する。アクセス・ジャーナリズムが固定化してしまうのだ。これこそが日本の新聞ジャーナリズムから「文春砲」のような権力の不正を暴くスクープが出ない理由である。

 国連特別報告者が、日本の報道萎縮の元凶が記者クラブにあると気付きながら日本政府の批判に走るのは、国連特別報告者の調査に協力した日本のジャーナリズム関係者が口をそろえて「圧力を受けた」と被害者ヅラをしたからだと思う。文春砲のようなスクープが出せないのは、記者クラブという既得権に70年以上もしがみついてきて、アクセス・ジャーナリズムが骨の髄まで染み付いてしまったからだ。だが、それがばれたらマスコミの信頼は地に堕ちる。そこで、記者クラブから目をそらすため、報道を萎縮させている犯人をつくり出して被害者ヅラを始める。

 調査報告書が共産党の見解に近いと指摘された国連特別報告者は、それを否定する一方で、「野党やマイノリティーの権利をどう守るかだ」と彼らとの距離の近さを匂わせた。「お友だち」にはどうしても甘い評価になるというのは何も安倍首相だけでなく、人間ならしょうがない。それは表現の自由の専門家を名乗る偉い学者でも変わらない。
 世界はアクセス・ジャーナリズムという名の「忖度」に満ち溢れていることを、国連特別報告者は教えてくれる。

 さて、本当にそうだろうか。以下では、原文から文章を抽出し、私が違和感を持った理由について述べる。

共謀罪が成立したことで報道が活性化したというウソ

 まずは、さらっと記事の間違いを指摘したい。

(旧ソ連の)プラウダや(中国の)人民日報以上の購読者数を誇り、他の先進国の報道機関と比べ物にならないほど豊富な活動資金を有し、さらに番記者制度によって朝から晩まで権力者たちをベタマークしているにもかかわらず、日本の報道はずっと「萎縮」してきたのである。

 むしろ、最近の方がまだ元気がある。思いっきり官僚の「食わせネタ」に乗っかった観があるが、森友学園や加計学園の火付け役は朝日新聞。(国連特別報告者の)ケイ氏らの懸念とは逆に、特定秘密保護法ができたことで、逆に「報道」らしい動きが現れてきたというのが現実なのだ。
※カッコ内は百瀬の注釈

 細かいことで恐縮だが、ここには事実誤認がある。
「特定秘密保護法ができたことで、報道らしい動きが現れた」というのは明らかな間違い。共謀罪が成立したのは2017年5月15日(同月21日に公布され、7月11日に施行される見通し)であり、森友学園や加計学園の問題が報道されたのは共謀罪成立以前のことだ。

 これらの国を見てもわかるように、「報道の自由」と法規制や国家からの圧力に特に因果関係は見当たらない。ジャーナリストがバンバン処刑されるような国でなければ、「報道の自由」はむしろ権力側ではなく、報道をする側の覚悟や姿勢の問題なのだ。

 これも事実とは異なる。例えばマレーシアではジャーナリストがバンバン処刑されているわけではないが、野党政治家や活動家、ジャーナリスト、一般市民で批判的な意見を持つ個人が逮捕されたり、政府に批判的な立場を取る新聞社が出版停止の処分を受けたりしている。

http://www.huffingtonpost.jp/human-rights-watch-japan/freedom-of-speech_b_8449672.html

 そもそも、ジャーナリストがバンバン処刑されない限り報道の自由があるかのような記述はいかがなものか。

ならば、なぜ日本の報道は「萎縮」をしているのか。

 実はその答えを、ケイ氏は昨年の訪日調査ですでに導き出している。日本にやってきて、ご本人いわく、さまざまな立場の報道に関わる人たちへの聞き取りをした後におこなった会見でこのように述べているのだ。

《記者クラブのシステムは廃止すべきだと思う。アクセスを制限するツールだ。記者クラブに加盟している人と記者クラブ外の人の両方に話を聞いて思うのは、(取材源へのアクセスを維持するために自分の論調を変えてしまう)「アクセス・ジャーナリズム」を助長しており、調査報道を弱体化させているということ。メディアの独立性にとって障害になっていると思う》(J-CASTニュース 2016年4月19日)

 助長どころか、「アクセス・ジャーナリズム」こそが日本の報道における「王道」だというのは、官邸を取材源とする「読売新聞」と、前川前文科事務次官を取材源とする「朝日新聞」の論調がきれいに分かれたことが雄弁に物語っている。

 ここでは、事実が歪曲して解釈されている。というのも、取材源へのアクセスを維持するために自分の論調を変えてしまうことがアクセス・ジャーナリズムだというのならば、例に挙げられた読売新聞と朝日新聞の行為はそれに該当しないからだ。

 なぜなら、政府寄りとされる読売新聞が官邸を取材源とすることや、反政府寄りとされる朝日新聞が前川氏を取材源とすることによって、彼らが自分たちの論調を変える必要はないからだ。むしろ、自分たちの論調をより正当化するための行為である。

 もし、ここで読売と朝日を批判するとすれば、「自分たちの論調に合う組織や人だけに取材するのではなく、自分たちの論調に合わない組織や人にも取材しろ」ということになるだろう。

 なぜデービッド・ケイ氏は日本の報道萎縮が「記者クラブ」に元凶があるということに気づきながら、「共謀罪」やら特定秘密保護法やらを持ち出して、日本政府の批判に走ってしまったのか。

 この背景を「産経新聞」は、ケイ氏のバックには国際的な人権団体がいて…みたいな「陰謀論」に持っていっている。そういう可能性も否めないが、個人的にはただ単に、ケイ氏の調査に協力した日本のジャーナリズム関係者が口を揃えて、「圧力を受けた」なんて被害者ヅラをしたからだと思っている。

 ここは、この記事の核ともいえる重要な部分だが、窪田氏は「個人的」に「思っている」こと、つまり憶測で結論付けている。
 ここは決して憶測で書いてはいけない部分。プロのライターとしてやってはいけないことだ。

安倍首相がお友だちに甘い評価になるのは人間ならばしょうがないという暴論

 大手マスコミが加計学園問題の本質である「日本獣医師会」や、麻生副総理ら文教族が名を連ねる「日本獣医師連盟」に対して切り込まないのは、自分たちの業界における「記者クラブ」問題とまったく同じからだ。

 これまでも、この悪名高い談合システムを廃止せよという意見が出たが、そのたびに「記者クラブがないと、どこの馬の骨かわからないのが取材現場をめちゃくちゃにしてジャーナリズムの質が落ちる」と主張して強固に反対してきた。ケイ氏が問題視する放送法もまったく同じで、政治と官に働きかけて新規参入を阻むという意味では、やっていることは日本獣医師会とそれほど変わらない。

 加計学園問題の本質は、本当に日本獣医師会と日本獣医師連盟にあるのだろうか。何か違う気がするが、勉強不足のためこれ以上のコメントは差し控える。ただ、記者クラブ制度に問題があるという点については、私も同意する。

「文春砲」や「新潮砲」のようなスクープが出せないのは「記者クラブ」という既得権益に70年以上もしがみついてきて、「アクセス・ジャーナリズム」が骨の髄までしみついてしまったからだ。しかし、それが世間にバレたらマスコミの信頼は地に堕ちる。そこで「記者クラブ」から目をそらさせるため、報道を萎縮させているという「犯人」をつくりだして、被害者ヅラを始める。

 そう、それこそが特定秘密保護法であり、「共謀罪」だ。

 前述した通り、記者クラブ制度に問題が多いことは私も同意する。だが、「記者クラブ=アクセス・ジャーナリズム(=悪)」と断定するのは短絡的過ぎる。
 善悪二元論で物事を考えるのは簡単だが、成熟した大人、ましてやノンフィクションライターを名乗る人物が行うべきことではない。
 また、仮に「記者クラブ=アクセス・ジャーナリズム(=悪)」だったとしたら、70年以上も政府に批判的な報道がなされてこなかったことになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/08071400/?all=1

 また、説明不足で理解しにくいが、窪田氏は「報道を萎縮させる犯人をつくり出して被害者ヅラを始める。そして、その犯人こそ共謀罪だ」と言いたいのだろうか。
 だとしたら、共謀罪が審議される以前、マスコミは「記者クラブにしがみつき、アクセス・ジャーナリズムが骨の髄まで染み込んでいていることが世間にばれないようにするため」、また「記者クラブから目をそらせるため」にどんな秘策を用いていたのだろうか。

 調査報告書がずいぶんと共産党の見解に近いんじゃないのと指摘されたケイ氏は、「共産党に知り合いはいない」と否定する一方で、「野党の人やマイノリティーの権利をどう守るかだ」と彼らとの距離の近さを匂わせた。

 いろいろ面倒をかけた「お友達」にはどうしても甘い評価になる、というのはなにも安倍首相だけではなく、人間ならばしょうがない。それは、表現の自由の専門家を名乗るエラい学者先生だって変わらない。

 ここにも事実誤認がある。「いろいろ面倒をかけたお友だちにはどうしても甘い評価になるというのはなにも安倍首相だけではない」とのことだが、安倍氏は一貫して「お友だちに甘い評価をしていない」と主張しており、それが加計学園問題の最大の争点になっているのは周知の事実だ。

 また、「お友だちに甘い評価になるのは、人間ならばしょうがない」とのことだが、仮に安倍氏が権力を用いてお友だちに便宜を図っていたとしたら、人間ならばしょうがないで済む話ではない。

 世界は「アクセス・ジャーナリズム」という名の「忖度」に満ち溢れているということを、国連の特別報告者は教えてくれている。

 日本の話をしていたはずだが、最後になって世界の話になっている。「世界中のマスコミはアクセス・ジャーナリズムに陥っており、日本もその例外ではない」とでも言いたいのだろうか。

  国連の特別報告者は、あくまでも日本における「当局者による直接・間接のメディアへの圧力、いくつかの歴史問題を議論する場の制限、国家安全保障を理由に情報へのアクセスに対する規制の増加を特に懸念している」(朝日新聞デジタル2017年6月13日)のである。

 むろん、世界中にアクセス・ジャーナリズムは存在するだろうが、この記事にはそれを明示する文章が存在しない。

読者のミスリードを誘う記事が掲載されたのはなぜか

 このように、この記事には事実誤認や事実を歪曲した解釈、憶測による断定などが散見される。この記事がどのような意図を持って書かれたのかはわからないが、窪田氏が誠意を持って書いたのならば、ライターとして力不足。故意に読者のミスリードを誘おうとして書いたのならば悪質。どちらにしても弁解の余地はない。

 この記事を掲載したダイヤモンドオンライン編集部にもまったく同じことがいえる。メディアとしての信頼性が疑われても仕方がない。

 窪田氏と同様、私も日本のマスコミに問題がないとは思っていないし、記者クラブがアクセス・ジャーナリズムを生む温床になっていることも否定しない。
 だが、重要なことを憶測で結論付けたり、事実を歪曲して解釈したりして、「大手メディアは安倍総理を批判できない」と決め付け、読者のミスリードを誘うのは誤りだと考えている。
 
 主張したいことがあれば堂々と主張すればいい。姑息な手段を使って、読者をペテンにかけるようなことをすべきではないのだ。

 窪田氏の魂のこもった記事を心から期待している。

言葉が奏でる音楽を聴く喜びと驚き――恩田睦『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎) [ブックレビュー]


蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

  • 作者: 恩田 陸
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


 音楽が好きだ。若いころから歌謡曲やロック、ポップスを聴いてきた。30歳を過ぎたころには好きなジャンルにジャズが加わり、さらにR&Bも楽しむようになった。だが、クラシック音楽はほとんど聴かない。

 嫌いではない。実際、クラシック音楽のアルバムも数枚持っている。それでもクラッシックに傾倒できないのは、「学校で習う堅苦しい音楽」という印象が強いせいかもしれない。

 本書はピアノコンクールを舞台にした群像劇。コンテストは第一次予選から第二次予選、第三次予選を経て本選まで続き、本選に残れるコンテスタント(演奏者)は約100人のうち6人だけ。

 早熟の天才にもかかわらず、長く第一線を離れていた栄伝亜夜(えいでんあや)。類まれな演奏技術を身につけているだけでなく、ルックスも優れた大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。楽器店で働きながら練習しなければならないというハンデを乗り越えてコンテスト出場を実現した高島明石(たかしまあかし)。そして、故人となった著名演奏家の推薦状を持つなぞの天才少年、風間塵(かざまじん)。
 この4人を中心にして、審査員やドキュメンタリー映像作家などの視点が加わり、約2週間にわたるコンクールの様子が精緻な文章でつづられる。

 まず驚かされるのが、コンクールで演奏される音楽が様々な言葉を駆使して表現されていること。形のないものを言葉で言い表すのは簡単なことではない。書き手の力量が試されるが、本書において著者は見事に成功を収めている。
 
 そして、物語の筋書きのうまさにもうならされる。どのコンテスタントが本選まで残り、誰が第一位になるのか――。まるで自分がコンテスタントになったかのようなドキドキする気持ちを味わえるため、ページをめくるスピードは自ずと速まる。
 
 もちろん欠点はある。例えば登場人物たちの関係性。世界的なコンクールであるにも関わらず、主要なコンテスタントたちが日本にルーツを持つのは少々、都合が良すぎる。また、登場人物の多くが才に長けており、リアリティに欠けると思う読者がいるかもしれない。
 だが、先に挙げたように、こうした欠点を補って余りある魅力を本書は備えている。クラシック音楽の知識があれば、より深くこの物語にのめり込めるに違いない。

 とはいえ、例えクラシック音楽に通じていなくても十分に楽しむことができる。本書は小説を読む愉楽だけでなく、音楽の持つ素晴らしさも伝えてくれる。少なくとも、学校教育によって植え付けられた私のクラシック音楽に対するイメージは一新された。

時代や性別を超越した美しい恋愛物語――パトリシア・ハイスミス『キャロル』(河出文庫) [ブックレビュー]


キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

  • 作者: パトリシア ハイスミス
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2015/12/08
  • メディア: 文庫



 『キャロル』は文庫本で440ページある長編小説。二部構成となっており、全体の約半分を占める第一部のストーリーは面白みに欠ける。第一部を読んでいる間中、1952年に発表されたこの小説が、なぜ現代まで読み継がれているのか不思議に思っていた。

 私は何度も読むことを中断しようとしたが、体に染み付いた貧乏根性がそれを許さない。「せっかく買った本なのだから、最後まで読まないと損」というわけだ。そして読了した今、自分の貧乏根性に感謝している。「この小説の素晴らしさを知るに至らせてくれてありがとう」と。

 主人公のテレーズはニューヨークに住む20代の女性。アルバイトでデパートの販売員をしているときに、年上の女性客であるキャロルと知り合う。
 テレーズにはリチャードというボーイフレンドがいる。だが、二人の間には溝があり、テレーズはリチャードに体を許すことを拒み続けていた。
 キャロルは不動産投資を仕事とするハワードと離婚協議中で、一人娘の親権を争っている。裕福な暮らしを送っているが、満たされない思いを抱いていた。

 第一部ではこの4人の登場人物に加え、かつてキャロルの恋人だった女性アビーを含めた5人の関係が丁寧に描かれる。だが、それが冗漫なのだ。しかも現代の読者にとって、同性愛や痴情のもつれといった話は手垢のついたものに感じられる。

 ところが第二部に入り、テレーズとキャロルがニューヨークから西部へ向かう自動車旅行に出るあたりから物語は一気に面白くなる。旅を続けていくうちにテレーズとキャロルは体を重ねるようになり、恋人同士として仲を深めていく。
 だが、甘い時間はそう長く続かない。2人の関係が良からぬ事態を招いてしまうのだ。

 テレーズとキャロルは一体どうなってしまうのか――。私はもう、この小説を読むのを止めることができなくなっていた。そして作品が発表された当時、心を震わすラストシーンを描くためには、冗漫な前半部分が必要だったのだろうと考えるようになった。

 『キャロル』は今から約半世紀前の女性同士の恋愛を描いた物語だが、時代や性別を超越した実に美しいラブストーリーである。
 もし途中まで読んで興味を持てなかったとしても、とにかく最後まで読みきってほしい。そのご褒美はきっと、想像以上に素晴らしいものであるはずだから。

三十路女子の成長物語に強く心を打たれた夜―― 「百円の恋」(武正晴監督) [映画]

百円の恋 [DVD]

百円の恋 [DVD]

  • 出版社/メーカー: TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
  • メディア: DVD


昨晩、渋谷のアップリンクで映画「百円の恋」を観てきました。
夕飯を食べた後の20:50開演のため、家から劇場まで行くのがおっくうで観るのをやめようかと思いましたが、ネットで席を予約してしまったので仕方なく足を運びました。

で、その結果。
観て良かった!

32歳の女がボクシングを通して成長する物語。なのですが、そんなに美しい話ではありません。痛い話です。
だけど、ダメ女を演じる主演の安藤サクラが、無様でかっこいい。

もし、10代のころにこの映画を観ていたら、ボクシングジムに通いたくなっていたと思います。
でも、45歳のおじさんはそう腰が軽くありません。
だけど、私のなかで何かがカチッと音を鳴らして動きました、確実に。

痛いけど、無様だけど、こんな風に人生を応援するやり方があるんだ。
映画を見終わった帰り道、私の足取りは明らかに軽くなっていました。

【再改稿】わが道を行く ~木内昇『櫛挽道守』~ [ブックレビュー]


櫛挽道守

櫛挽道守

  • 作者: 木内 昇
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2013/12/05
  • メディア: 単行本


 すごい小説を読みました。木内昇の『櫛挽道守(くしひきちもり)』です。

 小説の舞台は江戸時代末期。信濃国の北に位置する藪原宿で生まれた少女、登瀬(とせ)の家は代々、「お六櫛」と呼ばれる梳櫛(すきぐし)を挽いて貧しい生活を送ってきました。
 父の吾助は村で一番の梳櫛職人だと言われ、登瀬はその父を誰よりも尊敬しています。父の一挙手一投足を見つめる登瀬。リズムよく刻まれる音に「父さまは拍子で挽いとるだんね」と聴き惚れます。
 しかし、母と妹はそんな登瀬に良い思いを抱きません。女の仕事は飯炊きと櫛磨きで、櫛を挽くのは男の仕事だと母は言うのです。

 時代小説ではありますが、女性が一生働いていく際、様々な困難があることは現代に置き換えてもそれほど大きな違いはないのではないでしょうか。その点で女性の自立をテーマにした物語といえます。

 この小説には、もう一つ大きなテーマがあります。それは大げさにいうと人が働くことの意味です。作者である木内昇は、この物語で自らの生きる道を切り開いていくと宣言したといってもいいでしょう。

「書こう、例えどんなことがあっても書き続けよう」――。この小説を読んで私はそう思いました。
 わが道を行くのは簡単なことではありません。困難も多いでしょう。それでも前に進んでいく。
『櫛挽道守』は、道に迷ったり、前進することをあきらめたりしそうな、そう、私のような読者に勇気を与えてくれる小説です。

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牛を屠畜するところを見たことがありますか?――「ある精肉店のはなし」(纐纈あや監督) [映画]

牛を屠畜するところを見たことがありますか?

ドキュメンタリー映画「ある精肉店のはなし」(纐纈あや監督)では、2回ほどそのシーンが映し出されます。
思わず目をそらしそうになりましたが、ぐっと我慢して凝視しました。
だって私は、牛肉が大好きだから。
どうやって牛が“牛肉”になるのか、見ておかないといけないと思ったから。

この作品に登場する「北出精肉店」(大阪府貝塚市)は、牛の飼育から屠畜、解体、販売までのすべてを家族労働で手掛けています。

以前、内澤旬子さんの『世界屠畜紀行』を読んだことがあったため、牛を屠り、解体することはとても労力のかかる作業だと認識していましたが、映像で見ることであらためてそれを実感しました。
内澤さんは、屠畜する人たちを見て「カッコいいと思った」と書いていましたが、まさに私も北出家の人たちのプロフェッショナルな姿にカッコよさを感じました。

「ある精肉店のはなし」は現在、ポレポレ東中野で上映中です。
牛肉を食べる人(って、ほとんどすべての人か)は必見の作品ですよ!

ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

「ある精肉店のはなし」公式サイト
http://www.seinikuten-eiga.com/

「プレジデント」2014年2.17号で記事を書きました。 [PR]

遅ればせながら、「プレジデント」2014年2.17号で記事を書きました。

ANAホールディングスの伊東信一郎社長のお話しをまとめています。

よろしければぜひご一読を!


PRESIDENT (プレジデント) 2014年 2/17号 [雑誌]

PRESIDENT (プレジデント) 2014年 2/17号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2014/01/27
  • メディア: 雑誌



どうしようもなくアホな男のドキュメンタリー――「ホームレス理事長――退学球児再生計画――」(阿武野勝彦プロデュース) [映画]

どうしようもなくアホな男のドキュメンタリー映画。

「いいことをしている」と信じているから軌道修正ができす、どんどん落ちていきます。
でも、世の中にはこんなアホな男がいるんだと思うと、少しだけ勇気を分けてもらえました。

体罰のシーンには無批判でいられませんがこの映画、一見の価値アリ。
個人的には、気の優しい小山君が将来どんな大人になるのか大変興味があります。

作品のWebサイト
http://www.homeless-rijicho.jp/
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